「満足の原理で生きる」

 シュワルツ博士によれば、人には「最大化人間(マキシマイザー)」と、「満足人間(サティスファイサー)」の二種類がいると言っています。
「最大化人間」つまり、常に欲望と執着、比較の世界にいる人たちは、自分にとって常に満足がいかない世界であれこれ迷ったり悩んだりして、苦しんでいます。
 たとえ、やっとのこと、一つを選択しても、「もっと他に良いモノがあったのでは」と考えてしまうタイプです。
 そのため、いつまでたっても満足できないし、後悔することも多い人です。仏道ではこの世界のことを餓鬼道といいます。
幸せな結婚生活を送っていても「もし、別の人と結婚していたら、もっと幸福かしら」と、つい考えてしまうのがこのタイプです。
 それに比べ、「満足人間」は自分の価値観がしっかり定まっているので、ほとんど迷わず、現状がただ、ありがたく、すべてに感謝して生きることのできる人間です。
 人の意見や情報に惑わされず、即決して自分が選んだ道を感謝の心で前進する人です。
たとえ選択が失敗しても、その経験に感謝して、さらに人生をスッテップアップさせて、さらに、豊かな人生を表現することができます。

「満足人間」になるためには次のことが大切です。

 まず、この世界はすでに与えられ済みの人生であること、次に、自分の価値基準をしっかり持つことです。

自分は、神の子であり、無限力があり、無限能力者であると信じることです。

そして、とても大切なことは、奪う生活、与えられる生活から、与える生活、すなわち、愛の実践者になることが重要です。
このことを実行できるようになれば、あなたは、常に、ポジティブに生きることができ、常に幸福でいることができます。
物や財産、地位はやがて移り変わるもので本物の価値ではないと悟ることが大事です。

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中村天風さんの書き物には次のような言葉があります。
 
「さしあたる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」

つまり、今現在、しなければならないことだけを考えなさい。
過ぎ去った過去を悔やんでも変えることはできないし、先のことをいくら考えても分からないのだからという意味です。

人生とは選択の連続です。ならば、今、何を考え、どういう行動をするかが、今後の人生を決めるということです。
過ぎ去った過去はもうないのです。何時までも執着していてはいけません。未来は、今、現在、何を考えているかで決まります。
ならば、今を、感謝して、多くの人のため、自然環境のため、世界平和のため自分できる「徳」を積むことが必要なのです。
満足の原理の中で生きる人は、さらに素晴らしい幸福がやってきます。
ありがたいですね。感謝、感謝です。
 
 
 

「希望を実現する三つの肥料」

「希望を実現する三つの肥料」
 
家庭菜園はとても楽しいです。また、奥がとても深いです。土壌改良からはじまり、堆肥、水やり、はげましの言葉がけなど、野菜の苗にみんなで愛情を注いで育てる過程が楽しく、そして収穫する野菜は、味はもちろん、それ以上に収穫の喜びがひとしおで、神の愛と自然の力にただ感謝でいっぱいになります。
 
 さて、私たちが人生を歩む上で、何かしら志を立てるということはまことに大切なことであります。そしてその志はやはり大きく立てるべきだと思います。

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 もちろん「全く現実離れした夢のような」という意味ではなく、“棒ほど願って針ほど叶う”という諺もありますが、志を大きく持ち、高い目標をかかげてこそ、事が叶っていくのであって、はじめから志を小さくし、目標
を低く設定すると、叶うものも叶わなくなってしまいます
 
私たちの活動も、一つの大きな志を立て、その達成を目指して歩むところの「過程」をもっと楽しみ、さらに達成の喜びを多くの人たちと共有できるところに、人生の幸福実現と希望成就の醍醐味があるのではないでしょうか。
 
大聖師・谷口雅春先生は、御著書『新版 希望を叶える365章』の中で、「希望を実現する三つの肥料」と題して、次のようにご教示くださっております。
 
「希望を実現するためには、“希望の樹”に肥料を与えなければならないのである。その肥料には三種類ある。
霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与えた程度に報い返されるのが法則である。肥料を「希望の樹」に与えないでいて、その「希望の樹」が大なる成功の果を結ぶと考えてはならないのである。
 
霊的肥料を与えるには神想観をして、実相無限の供給を観じて、観の中で、その仕事を「無限供給の霊」の中に包んでしまうがよい。すると実相「無限の供給の世界」からその事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人
材や資料や要素が自然に集って来ることになるのである。
次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及び従業員に注ぐことである。愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料
が与えられないことになるのである。(同書4546頁)
 
このように志を立て、希望実現に向かって「三つの肥料」を存分に施し、それぞれの希望の樹を育て、その達成を目指して楽しく歩めばあなたにもさらに素晴らしい人生が開けます。
 

自他一体の自覚が地球を救う

「自他一体の自覚で愛を行じ、世界に平和を」
 
 
平成四年の初公開以来、述べにして二四〇万人に鑑賞されてきた映画があります。『地球交響曲』です。映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』とは、イギリスの生物物理学者ジェームズ・ラブロック博士の唱えるガイア理論、「地球はそれ自体がひとつの生命体である」という考え方に勇気づけられ、龍村仁監督によって制作されたオムニバスのドキュメンタリー映画で、美しい映像と音楽、珠玉のことばの数々によって織り成されるこの映画はロングランヒット作となっています。その地球交響曲・第一番』を飾ったのはハイポニカ発明者(水気耕栽培法)で知られる植物学者、野澤重雄氏です。ハイポニカとは、生き物の生育を阻害する要因を可能な限り排除し、生き物の力を最大限に発揮できる環境作りをした環境管理方法のマニュアル化させたものです。
 野沢氏は、たった一粒のごく普通のトマトの種から遺伝子操作も特殊な肥料も一切使わず一万三千個もの実のなるトマトの巨木を育て上げました。このハイポニカ栽培法の目的は、生物の中には「生命力」が実在するということを証明するとともに、今後の人口増加や土壌汚染などによる将来の食糧危機を解決する道を拓くことにもあったといわれています。また、栽培されたのはトマトだけではなく、1本の苗から三千三百本のキュウリの収穫、1本の苗から二百五十個のマスクメロンを実らせました。メロンはふつう1本の苗に1個しか実をつけないと言われていますので驚異な数だとお分かり頂けたと思います。それほど生物に潜在する生命力は、無限に生長・発展する可能性をもっていることが実証されたのでした。
 また、野澤氏は、「トマトは心を持っている。私は、そのトマトの心にたずね、トマトに教わりながら 、成長の手助けをしただけなんです。技術的には何の秘密もないし、難しい事もないんです。ある意味では誰にでもできます。結局一番大切なのは育てている人の心です。成長の初期段階でトマトに、いくらでも大きくなっていいんだという情報を与えてやりさえすれば、後はトマトが自分で判断します。トマトもを持っています」と語り、さらには、遺伝子の権威で知られる村上和雄筑波大学名誉教授との対談の中で次のように話しています。「神の生命は無限に循環して減ることのないエネルギーであり、自然界の営みだけが環境ではなく、心の環境が大きな意味をもつ。他者との人間関係においての心の持ち方そのものが人体にとっての重要な環境となる。つまり、心に蓄積された老廃物(心のほこり)が悪い影響を及ぼし、生命力を制限する原因となる。人間以外の動植物には自由な意識はないゆえに、心のほこりが蓄積することはないが、人間の場合、心の持ち方いかんが環境になってくるんですね。幸福であることも、健康であることも、全部心から出発しているんです。心の持ち方によって、この環境がいいと解釈すれば、それをいい環境としてとらえます。自然の生態系には普遍的な掟(ルール)があり、その自然法則とは何かを具体的に言えば、たすけあいですね。自分に都合のいいことは、人には悪いということですね。人のためになって喜ばれることです。相互扶助であり、共存共栄ですね。他人の犠牲において個人のみが栄えることは許されない」と答えています。
 即ち、天地一切のものは神において一体であり、すべてのものに心があり、お互いに、神の愛を表現し、仏の四無量心を行じ、お互いに生かし合い、与え合い、愛し合うことで地上に天国が実現します。
 かつて人は花や樹木や鳥たちと話ができた時代があったと言われています。古代の人たちは、自分の生命が宇宙の大生命と一つであることを直感で知っていました。太陽を敬い月を崇め、風にたずね、火に祈り、水に癒され、土と共に喜ぶ生活が自然にできていたといいます。ところが、最近の科学技術のめまぐるしい進歩と共に人は、いつしか「自然は自分たちのために利用し支配するもの、地球は自分たちのもの」と考えるようになりました。
その頃から、人は花や樹木や鳥たちと話す言葉も忘れはじめました。人類はこのまま自然と調和することを忘れ、自然と対話することも忘れ続け、自然破壊に突き進むのでしょうか。それとも科学の進歩と共に、自然とも調和しながら、再び、その言葉を思い出すことができるのでしょうか。
生長の家では「神・自然・人間の大調和」の実現のために、現在、“自然と共に伸びる”
運動を進めていますが、生長の家の「大調和の神示」には、次のように説かれています。  
「汝ら天地一切のものと和解せよ。…(中略)…天地の万物に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。…(中略)…われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」 
 この神示にある「すべて」という言葉は、人類だけを指すものではなく、「天地すべてのもの」を意味します。山も川も草も木も動物も菌類も鉱物などもすべてと和解し、調和することによってのみ、神は姿は現れ、私たちの内部の神性・仏性が輝き出され、自然とすべての人の行いが正しくなり、自然との大調和が実現し、再び、花や樹木や鳥たちとも会話することができるようになり、地球は救われ、人類は進歩し、世界に平和が実現するということになるのです。
 

新たなエネルギ社会へ

「いよいよ水素社会の到来」
 
 
今年は特に、“これまでに経験のない異常気象”と気象庁からの発表も多く聞かれました。地球温暖化による気候変動も日に日に深刻度が増していくように感じます。各方面、各分野からさらなるCO2削減が求められ、地球環境保全に努力することが一刻を争う状況になってきました。現在、地球を取り巻く環境は深刻なものがあり、石油の枯渇によるエネルギー問題、CO2排出量の増加、大気汚染への対応、森林破壊、水資源の枯渇、食糧問題などがあり、まずは自然循環型の代替エネルギーを積極的に活用していく必要があるのではないでしょうか。
このような状況の中、トヨタ自動車燃料電池車(FCV)の市販第1号となる「セダンタイプの新型燃料電池車」を今年度中に販売することを発表しました。「水素」と空気中の「酸素」を化学反応させて電気を起こし、排出されるのは「水」だけという未来を担う、クリーンなエネルギー車で、究極のエコカーとも言われています。今、この車は「ガソリン車に置き換わる可能性がある」モビリティとして注目されています。FCVとは燃料電池」を搭載し、モーターで走行するクルマのことです。ガソリンに代わる燃料の水素エネルギーの活用は、環境にやさしく、CO2を削減し、地球温暖化防止にも期待されています。
 この車のエネルギーなる水素は、水などから精製できるため、資源が豊富であり、酸素と反応させることで発電させることできるため、用途が広く、内燃機関を超える効率があるなどのメリットがたくさんあるようです。また、EV(電気自動車)は電池容量の制限から走行距離が短く、充電時間も長いなどの課題があるのに対し、FCV燃料電池車)はガソリン車を超えるエネルギー効率の高さを持っており、走行距離も500km以上走ると言われているほか、水素補充時間の短さ(ガソリン車とほぼ同じ3分程度)などから、ガソリン車と同じように一般に使えるクルマになる期待が持てます。
生長の家総裁先生は『小閑雑感』 Part 13の中で次のようにお説きくださっています。

私は本欄などで、地球温暖化問題を解決するためには、人類は化石燃料を基礎とした“炭素社会”から脱却し、大気中に豊富にある水素や太陽エネルギーを利用する“水素社会”へと早く転換すべきことを訴えてきた。これはまた、アースポリシー研究所を主宰するレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)などが唱えていることと同じである。が、池内教授は、この“炭素社会”“水素社会”の代りに「地下資源文明」と「地上資源文明」という言葉を使う。そして、この方が分かりやすく、また的確な表現だと私は思った(『小閑雑感』 Part 13地上資源文明への転換より)
 

「朗らかに笑って生きよ」

「コトバで心を新たにする」
 
 
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茶道の大家裏千家前家元の千玄室氏は少年時代にお母さんからいつも、
 
仏頂面しないで、毎朝洗面をするのだから、鏡に向かって笑顔で『おはよう。今日も元気で』と挨拶しなさい。そしたら誰にでもご挨拶できるようになります」と教えられたそうです。
 
 それ以来、毎朝、今でも「おはよう。頑張ろう」、夜には「ご苦労さん、明日も頑張ろう」と挨拶を励行しているそうです。このことで一日中明るく元気に過ごすことができ、何事でも乗り越えることができると言っています。
 儒教経書四書五経があり、四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をいい、五経を以て四書よりも高しとするところからきています。
 
 また、「楽経」を含めて四書六経ともいう場合もあるようです。そのなかの「大学」のに殷の湯王の言葉で「苟に日に新たにせば、日に新た、また 日に新たなり」とあり、今日の行いは昨日よりも新しく良くなり、明日の行いは今日よりも新しく良くなるように修養に心がけねばならないという意味になります。湯王は洗面の器にこの言葉を書き、毎日の自誡の句としたということです。
 
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 生長の家では「コトバの力」というものをとても大切にしています。したがって、心が日々新たに生まれるためには「コトバの力」使うとことです。そして善き言葉は自分の人生に極楽浄土を現すことができるのです。ヨハネ伝の第一章には、「太初に言あり、言は神なりき。・・・万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり・・・」と書かれています。
 
 コトバには生命があり、創造力があるということです。コトバによって心が変化し、心が新生し、新たに生まれることができるというわけです。この新たに生まれるとは、醜きもの、汚きもの、争いや苦しみの暗黒の世界に目を閉じて、光の世界に心の目を開いて、すでに在る天国浄土を観ることです。これが『日時計主義』の生き方であって、物事の光明面を見て、それを観じることで真象を現すことができる生き方が『日時計主義』の生き方であるのです。
 
 創始者谷口雅春先生は“朗らかに笑って生きよ”という言葉を掲げて生長の家を始められ、私たちは今日まで“日時計主義”の生活を大いに進めてきました。また、これからもさらに進めていきたいと思うのです。なぜなら、この“日時計主義”こそ、実相独在の信仰と唯心所現の真理を体現した生活の実践だからです。つまり、現象的にはまだ“光明”が充分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、それをコトバで認め、引き出すことで、地上に“光明”が現れる――そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しないからです。             谷口雅宣先生著 日時計主義とは何か?」
 
 いつも朗らかに笑って、周りに幸福を蒔いて生きると、それが回って自分の人生に幸福が実現されるのです
 

『天国の扉を開く』

日時計主義」で大調和
 
 
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税所敦子さん(さいしょ あつこ)近代の女性作家
明治の紫式部といわれ、近代黎明期随一の歌人と謳われた税所敦子さんは、京都の宮家付き武士の家に生まれ、幼児から歌に親しんだ。堂上派歌人千種有功に学び、その縁によって香川景樹、八田知紀、税所篤之、蓮月などを識り知見を広めた。
 
 豪放な性格の篤之は、歌人だが画家でもあった。(二十歳で薩摩藩士で京都出向の税所篤之と結婚。藩主島津斉彬の息子哲丸の守役を経て、文久(1863)年に久光の養女貞姫の近衛家への輿入れに従い京都へ。以降、十二年間近衛家に奉仕した。明治八(1875)年に宮内省に出仕、後に皇后の歌の相手など文学の諸務に二十数年精勤した)
 後ほど宮内省に入った有名な歌人です。この人は早くご主人に別れて、姑さんと二人暮らしをしておったそうです。
 
ところがこの姑さんは世にも有名な意地悪婆さんで、「鬼婆」という渾名の付いておったお婆さんですが、ある時、敦子さんが針仕事をしておりますと、横へやって来まして、ベタッと座り込んで、「敦子や、今からわしが下の句を詠うから、上の句を付けなさい!」といって、さもさも憎々しげに敦子さんを見やりながら、「鬼婆なりと人は云うなり」とこうやりました。
「鬼婆なりと人は云うなり」みんなに言われていることをよく知っていたのでした。
だから気になり、「敦子や、この上の句を付けなさい」といったのです。
本人はその通りなんだけれども、えらいことになりますから、さあ、大変です。ところが税所敦子さんは、即座に上の句を付けました。
「仏にも似たる心を知らずして」とこう付けたんです。
 
 
     仏にも似たる心を知らずして
鬼婆なりと人は云うなり
 
 
となるわけです。
 
 つまり、「お母さん、気にせんで下さい。あなたは仏様のような美しい心をお持ちなんですよ。それを理解できず、それを知らないからこそ他人(ひと)は時には鬼婆や、というようなことを申しましょうけれども、それは薄っぺらなまったく人の心を見通すことのできない人のいう戯言(たわごと)でありまして、お母さんは仏のような方なんですよ。どうぞそういう浅薄な人の言葉なんぞ耳をお貸しなさらずに、どうぞ通ってくださいね」という歌です。
流石のお婆さん、ビックリしました。
 
「あ、敦子はそう見てくれたんか。私の心を仏だというてくれたんか。なんと有り難い嫁じゃ」と。爾来、そのお婆さんの態度はコロリと一転して、「敦(あっ)ちゃん、敦(あっ)ちゃん」と可愛がり始めました。 
 今までは事毎に敦子さんを痛めつけておったお婆さんが、つまり地獄の世界におった敦子さんをそのお婆さんの心の転換によって楽しい楽園に転換したわけです。
 
 悟りの世界、或いはまたお浄土の世界、単に十万億土の彼方だけではなくして、現在のこの場が即変じて極楽になるという、こういう一つの考えを、与えられいるのではないでしょうか。
 人間の心の持ちようというものはいろんな場を転換する力さえ持っているのです。
 即ち、「日時計主義」
のものの見方とその実践が、人間関係の調和とも大いに関係があるのではないでしょうか。
 
 
 
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「もしあなたが、一輪の名もない野の花の中にすら、天国を見出すことが出来るならば、あなたの夫や妻の中に、そして息子や娘の中に、天国を見出すことは、いかにいっそう自然であることであろう。もしあなたが一茎のわらびの中にすら、“あっ、ここにわらびが一本新しく生まれている”と叫んで、新たなる悦びを見出し、このようにして、それがもつ神秘的な美しさに目覚めるならば、自分の妻や子供に大きな悦びを見出さぬということは決してあり得ないのである。もしそうであるならば、あなたの家庭は何と仕合せなことだと思う。このような家庭に住む人たちは決して互いに倦(あ)きることはないのである。もしあなたが夫や妻や子供に対して、倦怠を感じるならば、それはあなた自身が生まれ変っていないことを示すのであり、それで、あなたは全てのことを新鮮味がなく陳腐に感じざるを得なくなっているのである」
谷口雅春先生・フェンウィック・L・ホルムズ共著『信仰の科学』(pp.59-60)
 すでに与えられているもの、人々、人間関係などの光明面に注目し、そこから神の創造された善一元の世界を感じる生き方、それが生長の家の生き方なのであります。

「幸せと向き合う」

「幸せと向き合う」
 
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 ブータンは「国民総幸福(GNH)」を提唱し、国民の9割以上が「幸せだ」と答えるという国です。
 世界の国々が「国民総生産こそが豊かさの指標」と考え、たくさん物を作って売ることで幸せになると考えていた今の文明に、先代の国王が、「GNPも大切だが、GNHを何より大切に考え、その中で発展して行こう。」と語られたのだそうです。
GNHとはGross National Happinessで「国民総幸福」の意味です。
開発の哲学として、伝統文化を継承し、自然環境を保護し、仏教世界観を継承することを大事にするというのです。
私達日本人は学ぶことが多すぎますよね
 
 ブータン人の国民性や人生観を分かりやすい話があります。
 
 
その1「電気とツルのどちらが大事か」という話
 
 まだ電気の通っていなかった村に電線を引く話が出た時、
そこがオグロヅルという鶴の越冬地だったために、村人たちは真剣に考えます。
 電線を引くとそれにツルの足が引っ掛かり怪我をしたりすることを心配して、政府と村人の話し合いの結果「ツルを守ろう」ということになり、政府も援助してソーラー発電を選択したのだそうです。
 
ソーラー発電といいましても、夜に40Wが使える程度だったのだそうです。
「電気とツルとどっちが大事?」と日本の大学生に問うと、殆どの学生が「電気」と答えたのだそうです。
「電気と親は?」と尋ねると「電気」と答えた学生もいたそうです。
ブータン人は、「生きとし生けるものは皆どこかで繋がっている。」という仏教世界観を持っていて、
この輪廻する世界で、「生きとし生けるものは皆どこかで繋がっている。」からこそツルの方を選んだというのです。
そこには、自然と動植物共存、すべて同列で大切な存在であって、自分の存在も、動植物も含めた他者の存在とのつながり、関係性の中で捉えている考えが、国民一人一人の意識の根底にあるからだと言いいます。
 
 
  
その2「少欲知足というブータンの人々の価値観」
 
 この価値観をよく表している民話に「ヘレヘレじいさん」というブータンで古くから親しまれている物語があるそうです。
 日本の「わらしべ長者」(一本のワラを次々と交換して、お金持ちになっていく)とは、まったく逆の話です。
 身寄りはないけれど村の人気者のおじいさんが、ある日、畑を耕していると大きなトルコ石を発見しました。
 
「これを売ればお金持ちだ」と思ったおじいさんは、市場に向かうが、途中で次々と村人に出会い、トルコ石を馬と交換し、その馬を年老いた牛と、老牛を羊と、羊を鶏と交換してしまうのです。
 そして最後には、楽しそうな歌を歌っている村人と出会って、その歌を教わり鶏を渡してしまいました。
 おじいさんは、その歌を歌いながら帰って、その後も村人に慕われながら、貧しくとも楽しく暮らすというお話です。
 ブータンの人は、不利な交換を指して「ヘレヘレじいさんのようだ」と言うですが、それは決してマイナスの価値観でなく、むしろ「ヘレヘレじいさんのような生き方」に憧れているとも言えます。
 
 そこには、一見すると不利な交換だが、モノやお金ではなく、人と人とのつながりの中で生きていくことが何よりも幸せであって、利己的な自分だけの幸せを求めようとはせず、他人に惜しみなく施すことが大切だと考え、その実感の中で幸せを見ているのだと言う。
 
 
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経営コンサルタント勝間和代氏は精神的にも疲れ、酒、コーヒーなどで体も壊していた。仏教の三毒というものに触れ、コトバの使い方、感情の持ち方に間違っていたことに気付きました。
 
これまで、勝間氏は
・妬む
・怒る
・愚痴る
の毎日でした。
そこで、自分のツキをよくするためには、この3つの毒を追い出して、
・妬まない
・怒らない
・愚痴らない
という三毒追放なるものを打ち立てたのです。
 
 
昔は紙に大きく印刷して貼っていたとうのが、最近、気持ちがおろそかになっていたので、また、心掛けたいといっている。
 
仏教言うところの「三毒」とはつまり「貪・瞋・癡(痴)
 
(とん・じん・ち)であり、勝間版「三毒」の説明は一致しない「妬む・怒る・愚痴る」ではない。
 
貪・・・むさぼる、ものに執着する。「妬む」ではない。
瞋・・・怒って腹を立てる。
痴・・・本能や欲望のままに動いてしまい正しい行動が取れないこと。愚痴をいうというような生易しいものではない。
 
本来の「貪」以外の何者でもないからでしょう。
 
この勝間氏のエントリは、まだ、相手にこだわり、競争し、執着し、欲望の赴くままに行動しているにすぎず、そんなことは生きていく上での「生産性の向上」につながらない、執着を取り去れというのが仏教の教えです。
 
 
お茶会で美味しい生菓子が出された。ある人はそのお菓子を2個食べた。それを見ていた人が何と礼儀しらずで、厚かましいと思った。しかし、その人の隣には何と3個お菓子を食べた人がいた。その人は何も感じなかった。
かましいと感じた人は、まだ、貪りの心がある。自分も食べたいと思うから、そこには妬む心が潜んでいる。
2個も食べられて良かったと喜んで上げられる心でなければならない。
 
何々をして欲しい、こうして欲しいではまだ貪る心があるのです。
 
相手を想う喜び
プレゼントする喜び
 次のプレゼントを考える喜び
喜びの声を聞く喜び
 
実は「与えることは貰うことである」のです。
相手に喜ばれることの真意は自分の喜びであり、
心が喜べば幸福が喜びを連れて喜びに来る。
与えることは幸福を与えられることであるのです。
 
生き方の中心軸は物品の価値ではなく、心の感動と喜びにある。
人生の意義は「喜びの種を捲き、感動の花を咲かせる」
ことにある。