「幸せと向き合う」
「幸せと向き合う」
世界の国々が「国民総生産こそが豊かさの指標」と考え、たくさん物を作って売ることで幸せになると考えていた今の文明に、先代の国王が、「GNPも大切だが、GNHを何より大切に考え、その中で発展して行こう。」と語られたのだそうです。
◇その1「電気とツルのどちらが大事か」という話
まだ電気の通っていなかった村に電線を引く話が出た時、
そこがオグロヅルという鶴の越冬地だったために、村人たちは真剣に考えます。
電線を引くとそれにツルの足が引っ掛かり怪我をしたりすることを心配して、政府と村人の話し合いの結果「ツルを守ろう」ということになり、政府も援助してソーラー発電を選択したのだそうです。
そこがオグロヅルという鶴の越冬地だったために、村人たちは真剣に考えます。
電線を引くとそれにツルの足が引っ掛かり怪我をしたりすることを心配して、政府と村人の話し合いの結果「ツルを守ろう」ということになり、政府も援助してソーラー発電を選択したのだそうです。
ソーラー発電といいましても、夜に40Wが使える程度だったのだそうです。
「電気とツルとどっちが大事?」と日本の大学生に問うと、殆どの学生が「電気」と答えたのだそうです。
「電気と親は?」と尋ねると「電気」と答えた学生もいたそうです。
「電気と親は?」と尋ねると「電気」と答えた学生もいたそうです。
ブータン人は、「生きとし生けるものは皆どこかで繋がっている。」という仏教世界観を持っていて、
この輪廻する世界で、「生きとし生けるものは皆どこかで繋がっている。」からこそツルの方を選んだというのです。
そして最後には、楽しそうな歌を歌っている村人と出会って、その歌を教わり鶏を渡してしまいました。
おじいさんは、その歌を歌いながら帰って、その後も村人に慕われながら、貧しくとも楽しく暮らすというお話です。
そこには、一見すると不利な交換だが、モノやお金ではなく、人と人とのつながりの中で生きていくことが何よりも幸せであって、利己的な自分だけの幸せを求めようとはせず、他人に惜しみなく施すことが大切だと考え、その実感の中で幸せを見ているのだと言う。
これまで、勝間氏は
・妬む
・怒る
・愚痴る
・怒る
・愚痴る
の毎日でした。
そこで、自分のツキをよくするためには、この3つの毒を追い出して、
・妬まない
・怒らない
・愚痴らない
・怒らない
・愚痴らない
という三毒追放なるものを打ち立てたのです。
昔は紙に大きく印刷して貼っていたとうのが、最近、気持ちがおろそかになっていたので、また、心掛けたいといっている。
(とん・じん・ち)であり、勝間版「三毒」の説明は一致しない「妬む・怒る・愚痴る」ではない。
貪・・・むさぼる、ものに執着する。「妬む」ではない。
瞋・・・怒って腹を立てる。
痴・・・本能や欲望のままに動いてしまい正しい行動が取れないこと。愚痴をいうというような生易しいものではない。
本来の「貪」以外の何者でもないからでしょう。
この勝間氏のエントリは、まだ、相手にこだわり、競争し、執着し、欲望の赴くままに行動しているにすぎず、そんなことは生きていく上での「生産性の向上」につながらない、執着を取り去れというのが仏教の教えです。
お茶会で美味しい生菓子が出された。ある人はそのお菓子を2個食べた。それを見ていた人が何と礼儀しらずで、厚かましいと思った。しかし、その人の隣には何と3個お菓子を食べた人がいた。その人は何も感じなかった。
厚かましいと感じた人は、まだ、貪りの心がある。自分も食べたいと思うから、そこには妬む心が潜んでいる。
2個も食べられて良かったと喜んで上げられる心でなければならない。
何々をして欲しい、こうして欲しいではまだ貪る心があるのです。
相手を想う喜び
プレゼントする喜び
次のプレゼントを考える喜び
喜びの声を聞く喜び
実は「与えることは貰うことである」のです。
相手に喜ばれることの真意は自分の喜びであり、
心が喜べば幸福が喜びを連れて喜びに来る。
与えることは幸福を与えられることであるのです。
生き方の中心軸は物品の価値ではなく、心の感動と喜びにある。
人生の意義は「喜びの種を捲き、感動の花を咲かせる」
ことにある。