愛語よく回天の力あり

道元禅師

 

徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし。

怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。

知るべし、愛語は愛心より起こり、愛心は慈心を種子とせり。

愛語よく廻天の力あることを学すべきなり。

ただ能を賞するのみにあらず。

 

 

「面(むかい)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。」道元禅師

面と向かって優しい言葉をかけられれば、自然と顔に喜びがあふれ、心が楽しくなる。

また、人づてに優しい言葉を聞いたら、その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。

それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、他人をたいせつに思う心の中から、芽生えてくるものだからです。

 

本当に、優しい言葉というのは、世界を変える力があるのだということを、私たちはよくよく学ばなければいけません。

勇気を与える言葉は直接相手に伝えた方が、心に響きます。

褒める言葉は直接よりも第三者を通じて伝えた方が、心に響きます。

戒めの言葉は誰も居ない所で教える方が、心に響きます。

伝え方を間違えれば相手に恥をかかせることにもなります。
そして心に傷をつけてしまう事もあります。

もっと言葉に敏感になってはどうでしょうか。

現代社会はルールに拘束されながら文字で情報を伝える為に、言葉の持つ力を重要だと思わなく成ってしまったのではないでしょうか。

言葉には実現力があると知れば

一言・一言をとても大切に使うのではないでしょうか。

生きる為の言葉、愛の為の言葉、慰めの言葉、希望の言葉、感謝の言葉、残りの言葉数を数えながら使うとすれば決して疎かにする事は出来ません。

 

スポーツ選手やアスリートが競技場に出る前に監督やコーチから声を掛けられます。
今日のコンディションに合わせて自信が沸き起こる言葉を掛けるのです。

アーティストがステージに出る前にもスタッフが声を掛けます。
お客様の状況を伝えながら興奮度を上げて行く言葉です。

「初めてのお使い」と云う番組で子供が買い物に出かけます。
ママのお願の言葉で冒険に出かけるのです。

そして泣きながら目的を達成しママに抱き締められて「ありがとう」の言葉をご褒美で頂くのです。

みんな言葉の魔法で勇気がでたり、傷ついたり、元気になったり、喜んだりします。
そんな大切な言葉を疎かにせずに大切にしたいものです。

愛語よく回天の力ありです。

言葉は人生を大きく変えることが出来るのです。

 

 釈迦牟尼世尊はかくの如くして、五百人の大弟子たちに、それからまた学すべき弟子や無学にてもそのまま悟れる境地にある弟子たち二千人に対して、更に進んでは法華経の一句一偈を読み又は聞くことを得たすべての人々が、結局、「仏に成れる」と伝う記を授けられたのであります。吾々が、「仏に成れる」と伝うのは、既に仏の実相がたとい肉眼には見えなくとも吾々の生命の内部にはあると伝うことであります。それは、やがて朝顔朝顔の花が咲くのは、種子の中に、肉眼にはまだ見えなくとも、既に朝顔の花がある―あるからこそ顕れてくるのであって、無いものが肥料その他の結合によって現れるのだったら、肥料の配分の具合によっては、朝顔の蔓に梅の花が咲くかも知れない筈であるけれども、けっしてそんな事はない。朝顔の種子からは唯朝顔の茎、葉、花が伸び咲くのみであります。すなわち朝顔の種子の中には既に「朝顔の花」が、現成しているのであります。その既に現成せる花が現象の世界に顕現するのには、色々の条件、過程、方便等が要るのでありますが、それは、条件、過程、方便等によって創造されるのではなく、どこまでも既にあるものが現成するのであります。五百弟子が仏になるのは、既に彼らが仏であるからであります。吾々が法華経を読み、また法華経に書かれている真理と同じ言葉を読み、また聞くことによって、仏と成ることが出来るのは、その「真理」のコトバが「実相」を引き出すからであります。何故「真理」のコトバが実相を引き出すかと申しますと、吾々の実相は「神のコトバ」(神の生命波動)であり、真理のコトバはそれと同意味、同波長を有っているからであります。

                   (谷口雅春先生著『幸福生活論』より)