「今を生きる」
禅の教えには「看却下(かんきゃっか)」という語句があります。
11世紀、中国の宋の時代の禅僧、五祖法演禅師の言葉です。
文字通りに解釈すれば「自分の足元を看よ」というほどの意味になりますが、ある夜、法演禅師が3人の弟子を伴って歩いている時のこと、突然風が吹いてきて手にしていた灯火が消えてしまったのです。辺りは、一瞬にして真っ暗になりました。法演禅師は、直ちに3人の弟子たちに問います。「一転語を下せ」と。つまり、予期せぬ突然の出来事に対し、自分の悟りの心境をそれぞれに語句で述べよと問うた訳です。
三人の弟子達はそれぞれに答えましたが、その中で、仏果(ぶっか)という名の弟子の「看却下」という答えが法演禅師の心に適ったのです。
灯火が消えた真っ暗闇の中では、あらぬものを想像して右往左往し、道を見失ってしまうことになりがちですが、そんな時にこそ、「脚下を看る」という当たり前のことをしっかりと行うことが大切であるということが語られているのです。
私たちは常に「足元を看ること」を忘れてはならないのです。
移り変わる事象に惑わされるのではなく、既に恵まれている自己であることを実感することこそが大切なのです。
この多くの恵みによって生かされている自己を自覚し、身近な周囲の当たり前の出来事、ひとつひとつに感謝しましょう。天地一切のものに感謝するとき、神様の創られた素晴らしい世界を実感することができるようになります。
釈迦牟尼世尊はかくの如くして、五百人の大弟子たちに、それからまた学すべき弟子や無学にてもそのまま悟れる境地にある弟子たち二千人に対して、更に進んでは法華経の一句一偈を読み又は聞くことを得たすべての人々が、結局、「仏に成れる」と伝う記を授けられたのであります。吾々が、「仏に成れる」と伝うのは、既に仏の実相がたとい肉眼には見えなくとも吾々の生命の内部にはあると伝うことであります。それは、やがて朝顔に朝顔の花が咲くのは、種子の中に、肉眼にはまだ見えなくとも、既に朝顔の花がある―あるからこそ顕れてくるのであって、無いものが肥料その他の結合によって現れるのだったら、肥料の配分の具合によっては、朝顔の蔓に梅の花が咲くかも知れない筈であるけれども、けっしてそんな事はない。朝顔の種子からは唯朝顔の茎、葉、花が伸び咲くのみであります。その既に現成せる花が現象の世界に顕現するのには、色々の条件、過程、方便等が要るのでありますが、それは、条件、過程、方便等によって創造されるのではなく、どこまでも既にあるものが現成するのであります。五百弟子が仏になるのは、既に彼らが仏であるからであります。