『 与えることの喜び 』

 
イメージ 3
 
  無我の献身こそ周囲を生かす道 
 
 薬師寺127管主法胤 ( ほういん ) 管主法話は、お釈迦様の教えを解り易く説き、話が的を得ていると評判です。
 山田法胤 ( ほういん )管主は生きがいとは、奉仕活動であり、ボランティア活動などを通して、誰かに親切をすることすなわち無我の献身こそが周囲を生かす道であり、自分の生命を生かす道であると説いています。
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     与えることの喜び       
 
 与えることの喜びとは、たとえば花は、善人にも悪人にも誰にでもその美しさを与えています。鳥は誰にでも、美しい声で鳴いてくれます。
分け隔てなく、誰にでも惜しみなく与える心は全てを豊かにし、惜しむ心、執着心は心を貧しくします。
 
 お釈迦さんは、「蜜蜂は花の蜜を吸うときに、花の形や、色や匂いを壊すことなく、ただ、蜜のみを吸う。しかも、雄しべ、雌しべの交配を行い、豊かな実りを残すのである」と説いており、すなわち、生きていくという事は、自分を生かすと共に、傍を楽にすることで、社会や自然を豊かにする生き方です。周りを幸福にする生き方こそ自ずと自らが生きていく道が開けることなのです。
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  「神の大地に、肥料を与えましょう」   
 
「与えよ、さらば与えられん」が無限供給の根本となる法則である。種子を捲かずして果実を収穫しようと思ってはならないのである。
 
種子を捲いて世話をすれば、必ず捲いた分量よりも多くの収穫が得られる。
これが「与えよ、さらば、与えられん」の法則なのである。
 
私たちはすべての供給が、米でも、木材でも、セメントでも石材でも、石油でも、一切の衣料資源でも、悉く大自然(神)から与えられたものであることを知るべきである。
 
 では、神からそのように与えられながら、吾々は「供給の什分の一」ぐらいは割いて是を神の道をつたえるために、神様の御用のために献げるのが何が惜しいのであろうか?
 
 何でも「取り得」をしたら儲かるという考えが間違いなのである。肥料をやらないで、毎年収穫ばかりしていたら、ついに地力は痩せてしまって収穫は皆無になるであろう。
 
 それと同じで吾らは神に感謝して収入の什分の一を大地に肥料を与えるつもりで神の御用に献げるとき、いつまでも肥沃の土地から無限の収穫を得ることができるのである。
 
             生長の家創始者谷口雅春先生著『新版 栄える生活365章』より