『 建国記念日 』 (2)

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天孫降臨(てんそんこうりん)」


天照大御神(あまてらすおおみかみ)は葦原中国 (あしはらのなかつくに)《日本》がさらに豊か

で平和な国になるようにと、孫にあたる瓊瓊杵尊日向国高千穂峰(ひゅうがのくにたかちほの

みね)に天降らせました。

瓊瓊杵尊は御殿を建て、


天照大御神(=八咫鏡・やたのかがみ)

草薙の剣(くさなぎのつるぎ)

八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)


をおまつりし、

高天原(たかまのはら)の稲穂を葦原中国に住む人々の食物としてお植えになり、稲が豊かに実る

平和な国となりました。


現在では八咫鏡伊勢の神宮皇大神宮に、天叢雲剣熱田神宮に神体として奉斎され、

八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されています。

また皇居には八咫鏡天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の形代は宮中三殿賢所に、天叢雲剣の形代は

八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされています。

(儒学伝来以後、鏡は「知」、勾玉は「仁」、剣は「勇」というように、三種の神器は三徳を表わす

という解釈もある。

なお、これら三器を「三種の神器」と総称する用例は、『平家物語』、『神皇正統記』などに見える。

また『神皇正統記』では、「三種の神宝(さんしゅのしんぽう・みくさのかむだから)」

とも称される。)

「珠」というのは「霊」(みたま)の象徴であり、天照大御神の神霊の天職は八坂瓊勾玉のようだ

と申すのであります。

八坂は「弥榮」であります。

「まがたま」というのは、真輝魂であり、真に光輝燦然たる魂という意味になります。



高天原天照大御神は、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、八坂瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)、

八咫(やた)の鏡、草薙(くさなぎ)の剣の三種の神器を授けて、みことのりされました。

(天壌無窮の詔勅)


○豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、これ吾が子孫

(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。

汝(なんぢ)、皇孫(すめみま)、行きて知らせ。

さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きはま)

り無かるべし。
 

こうして瓊瓊杵尊は、筑紫の日向国の高千穂に天降りました。

このことを天孫降臨といいます。



「ニニギ(邇邇芸命)の御子誕生」



木花咲耶姫)と笠沙(かささ)の御前(みさき)で出逢い結婚を申し込みました。

父のオオヤマツミはそれを大変喜んで、姉のイワナガヒメ(石長姫・磐長姫)も同時に差し出し

ましたが、ニニギはイワナガヒメのあまりの醜さに恐れをなし父のもとへ送り返してしまい

コノハナノサクヤヒメだけを傍に留めたといいます。

オオヤマツミは「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすれば天津神

御子の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くよう

に繁栄するだろうと思ったからであります。

結婚したニニギは一夜コノハナと過ごしただけで戦いに出かけていきました。しばらくして帰って

きたニニギにコノハナは御子を授かったことを告げますが、一夜で身籠ったことにニニギは国津神

の子ではないかと疑いを持ちました。

疑いを晴らすため、コノハナサクヤヒメは子を産むときに出入り口を塞いだ産屋(無戸室・うつむ

ろ)に火を放ち、「もし天津神(ニニギ)の子でなければ無事には産まれません、天津神の子なら

ば無事に産まれます」と中に籠りました。無事に三柱の子が産まれ、天津神ニニギの子で

あることが証明されてコノハナは面目をたてたのです。

その御子の名を

火が明るく燃えあがった時に生まれた子をホデリノミコト(火照命=海幸彦)

火が盛んに燃えている時の子をホスセリノミコト(火須勢理命

火が収まりかけた時の子をホオリノミコト

(火折命=山幸彦、またの名をヒコホホデミノミコト彦火火出見尊)といいます。


木花開耶姫

 
日向国に降りた瓊瓊杵(ににぎ)尊が、笠狭(かささ)の岬に到ると、「秀(ほ)立つる浪穂の上に、

八尋殿(やひろどの)を建てて、手玉(ただま)ももゆらに」機(はた)を織る少女が尊を迎へ入れ

ました。

大山津見神(おほやまつみのかみ)の娘の、磐長姫(いはながひめ)、木花開耶姫(このはなのさくや

ひめ)の姉妹である。この女神は、富士の浅間神社の神です。
 

尊は、妹の木花開耶姫を娶ったところ、一夜にして御子を宿したといふので、その子は国つ

神の子ではないかとお疑ひになったのです。

姫は「もし国つ神の子ならば、産むことやすからじ」と「うけひ」されて、御子をお生みになると

き、産屋に火を放たれた。姫の言葉通りに三柱の御子が無事に生まれ、尊の御子であることが

証明されたのでした。


御子の名は火闌降命(ほすせりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、火明命

(ほあかりのみこと)の三柱であります。(日本書紀)
 
姫は、疑はれたことを、あとあとまで恨んで、尊に逢ひたがらなかったので、瓊瓊杵尊は、憂へて

御歌をお詠みになりました。
  

○沖つ藻は 辺には寄れども、さ寝床も 与はぬかもよ。浜つ千鳥よ
  
(沖の藻草さへ浜辺に寄せられて来るといふのに、寝床も与へられないのだな。浜の千鳥は)



「火闌降命(海幸彦)」・「彦火火出見尊(山幸彦)」・「豊玉姫


火闌降(ほすせり)命(いのち)と彦火火出見(ひこほほでみ)尊(みこと)は、ある日お互ひの道具

(兄の釣針と弟の弓矢)を交換しました。

ところが彦火火出見尊は、兄の釣針を波間で失くしてしまひ、探し訪ねて海の果ての海神

(わたつみ)の宮を訪れた。

宮で、わたつみの神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、しばらく供に暮らしたが、釣針が

見つかったので、日向の国へ帰ったのでした。
 

豊玉姫は、尊の御子を宿していました。天つ神の御子なので、海中で産むわけにはいかないと

して、日向の国へやって来たのです。
 
急いで海辺の渚に、鵜の羽を葺草(ふきくさ)にして産殿(うぶどの)を造った。屋根を葺き合へぬ

うちに、姫は臨月となって産殿に入られました。

子を産むときは本来の姿に戻るといいます。姫は八尋ワニになって、産殿の中を這いまはりま

した。

これを覗き見してゐた尊は、驚いて逃げてしまいました。

豊玉姫は、見られたことを恨み恥づかしんだが、見られてしまったことは否定しがたく、御子を

置いて、海境をさへぎって海へ帰るしかなかった。生まれた御子は、鸕鷀 草葺不合命(うがやふき

あへずのみこと)(天津日高日子波限(あまつひこひこなぎさ)建鸕鷀 草葺不合命(たけうがやふき

あへずのみこと))と名づけられました。
 
豊玉姫は、夫や子への恋しさのあまり、妹の玉依姫(たまよりひめ)を乳母として送り、わたつみの

宮から歌をお届けになりました。


○赤玉は 緒さへ光れど、白玉の 君が装ひし、貴くありけり
 
彦火火出見尊も、豊玉姫へ、返事の御歌をお送りになりました。
  
○沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝(ゐね)し 妹は忘れじ。世のことごとに
  
(沖から毎年鴨が渡って来る島で、我と共に寝た妻は、忘れはしない。めぐる年毎に思ひ出さう)
 
鸕鷀 草葺不合命は、日向(宮崎県)の鵜戸神宮に祭られてゐる。命は、乳母の玉依姫命


と結婚して、神日本磐余彦命(かむやまといはれひこのみこと)

神武(じんむ)天皇(てんのう))がお生れになりました。