『いつでもどこでも祝福を』
「いつでもどこでも祝福を」
永平寺の奕堂和尚がある朝に本堂に坐っておりました。すると、まことに気持ちの好い釣鐘の音がきこえてきたそうです。
あの鐘はいったい誰が撞くのだろうと思い、まことに清々しい浄らかな鐘だと思いその鐘をついた人を呼べと仰った。なんと、そこに来たのは新参の小僧だったのです。
「お前はどういう気持ちで今の鐘を撞いたのか」
と訊きますと、小僧は
「国を出るときに、何事をするにもありがとうございますと念じながらせよと母に教えられたので、その心で撞きました」
と答えました。
この小僧は後に有名な森田悟由禅師になられた方だそうです。
また、こんな話もあります。
ある人がホテルに泊まられるとなんとも不思議な、平和と歓喜の感情が急に湧き起ってきたそうです。
そこで、その部屋のメイドに訪ねてみると、
「この部屋を掃除するときには、この部屋に泊まる人が幸福になりますようにと祈りながら掃除をします。さらに、この部屋があるので仕事ができるとこの部屋に感謝とお礼をいいいながらいつも掃除をしているのですよ」
と答えたのでした。
このように祝福の念が全世界にひろがって行くとき自然に世界に平和が訪れます。これは祝福する行為を機縁として全世界を祝福したと云うことになるからです。
善事をなすためには、どんな小さな機会をも見逃してはならないのです。「もっと自分が修養出来てから人を救おう」と考えたり、「も少し機会が熟してから人を救おう」と考えたりしていましては、完全なる自己完成は永遠に成就するものではありませんから、そして、もっと善い機会はと望めば、いつまでも待っていることになりますから、善い機会など永遠に捉え得ませんから善事をなすことは何時まで経っても不可能です。