「何があっても勝つ」

「何があっても勝つ」 柔道家 山下泰裕


 山下泰裕氏203連勝、対外国人選手無敗、日本選手権9連覇など数々の記録を残した柔道界では歴史に残る 柔道家です。

 柔道家で有名な山下氏は、幼い頃から体が大きく頭一つ飛び抜けていたそうです。
小学校時代は、山下がいるから学校に行かないという子もいたそうで、とにかく強かった。

 そんな山下氏はオリンピックに出ることが目標でした。そのためにオリンピックに焦点を合わせて稽古を積んでいました。

《その1》
 
 80年のモスクワ五輪は、出れば金は間違いない、といわれた山下泰裕氏は、ソ連アフガニスタン侵攻に抗議するため、米国、日本などがボイコットしたために、参加できなかった経験があります。

 オリンピックを目標に柔道に打ち込んで、金を目指し山下泰裕は、現実に打ちひしがれて、「ああいう思いは2度と味わいたくない」と思ったということです。

 
《その2》
 
 その直後の、日本選手権で遠藤純男との戦いにおいて、遠藤の蟹バサミの技をかけられて骨折したのです。

 そのとき山下氏は「全部目標も失ったが、ゆっくり休めという声だと思った」と語ったのでした。

  
《その3》
 
そして、4年後のロサンゼルス五輪の前年の83年。モスクワでの世界選手権では3回戦で左肩を負傷。

 準決勝、決勝は右手だけを主体にして優勝。世界3連覇を達成しました。

 それから翌年いよいよロサンゼルス五輪。ほかの選手より、数倍も長い時間だった。待ちわびた晴舞台であったが、思いがけない試練に立たされたのです。。
 

《その4》

 2回戦で右足ヒフク筋(ふくらはぎ)断裂の負傷、

 持ち前の精神力で耐え、決勝ではラシュワン(エジプト)を1分5秒、横四方固めに破って悲願のオリンピック・チャンピオンとなりました。

4試合連続一本勝ちで対外人114連勝、通算198連


《その5》
 
 準決勝は当然相手は右足を攻めてきた。ベルコロンボに対し、大外刈りをしかけたのちに、大内刈りから寝技に持ち込み勝利。しかし怪我をさらに悪化させたのです。
五輪でなかったら棄権する状態だった。


 決勝はエジプトのラシュワン。絶好調だった。ラシュワンは早く動けば山下はついて来れないと言われていました。
山下もどうしたら勝てるかを思い悩んでいたのです。

「この程度の怪我で負けるもんか。」という気持ちだったといいます。

 ラシュワンは右を狙い、次に左を狙ったがバランスを崩した。その一瞬の隙に本来の軸足ではない左足でしかけ倒した。そして寝技に持ち込んで勝利。

 この瞬間のやったことのない動きが咄嗟に出ることは、練習の賜物だという。「記憶にあるのは日本でいちばんシアワセだ。」と思ったことだといいいます。


 次に何をやるかを常に考えてきた山下が五輪の金メダルを掴んだのでした。


 人生で最も長い30秒間だった。目頭が熱くなり、まぶたが潤み、そして涙に変わった。取材の現場にいて、泣いたのはこの時だけ。たった1回しかない。

だれもが立ち上がって、山下の勝利を祝福しました。



国民栄誉賞を受賞

 山下氏はこの年に国民栄誉賞を受賞。
数々の栄光をもとにこのまま引退するのではと思われていましたが、山下は畳みに戻ってきたのです。

 翌年の日本選手権は斎藤仁との決勝になりました。

斎藤も山下を倒さない限りは日本一ではないという思いもあったといいます。
この試合、力は互角、互いに譲らずに、攻め手に勝った山下が判定勝ち。これが山下の最後の試合となったのです。


1895年9月、引退会見が行なわれ、203連勝、対外国人選手無敗、日本選手権9連覇など数々の記録を残した。
「大事なことは今までのことを、これからに生かすこと。前向きに。」

「何があっても勝つ」



昭和天皇との園遊会でのエピソード


昭和57年5月18日の園遊会について、柔道の山下泰裕さん「あの時」を語る

「ホネが折れるだろうね」「はい、2年前に骨折・・・」


「ずいぶん柔道で一生懸命やっているようだが、ホネが折れるだろうね」
 「はい、二年前に骨折したんですけど、今は体調も良くなりまして頑張っております」
 昭和57年春、昭和天皇と柔道の山下泰裕選手(現・東海大学教授)とのやりとりです。



 山下氏に、”真相”と思い出を語ってもらった。 私は夢に向かって前へ進む人生を送っているので、過去のことはあまり記憶にとどめていませんが、「園遊会」に限っては、かなり鮮明に覚えています。

 招待されたとき、私は二十代の大学院生でしたが、園遊会とはどういうものか分かりませんでした。普通のスーツで行ったら、招待客はモーニング姿ばかりで、たくさんいると思っていたスポーツ関係者もほとんどいませんでした。

 受付に着いたら、マスコミのカメラと記者の視線が集中している場所に案内されて、横にはタレントの黒柳徹子さんとノーベル賞受賞者福井謙一教授がおられるし、とんでもないところに来てしまったとおもいました。

 そのうちに皇族の方々が近付いてこられ、昭和天皇に初めてお会いいたしました。
昭和天皇はお声がけしながら近づいて来られたとのですが、ものすごく優しく慈愛に満ちた感じでいらしたのを覚えています。

 私は戦後生まれなので、皇族の方々に対し、別世界の人というほどの意識は無く、それほど緊張はしませんでした。

 けれども、昭和天皇が私の前に立たれ、お付きの人が「世界選手権で二階級制覇した山下選手です」と紹介を始め、にこにこしながらうなずいてお聞きになっている数秒間に目が合い、急に緊張してきました。

 そして会話の中で、昭和天皇が「柔道で一生懸命やってますね。骨が折れますか」とお聞きになりました。

 私はその二年前に足を骨折し、この園遊会の前に、天皇陛下(当時の皇太子さま)や皇太子殿下(同浩宮さま)から「足は大丈夫ですか」ときかれていたことや緊張もあって、条件反射的に骨折のことを聞かれていると思い、「二年前に骨折したんですけど・・」と答えていました。

 周りもシーンとした雰囲気で聞いていたのが、明るい笑いに包まれたことで、これはピント外れな答えをしてしまったなとすぐに分かりました。
結局、会話の中では軌道修正する間もなく終わってしまいました。

あの時、昭和天皇にお会いし、表情やお声がけなどの雰囲気、実際のご活動から、皇室は世界の平和を祈
り、日本国民が安らかな日々を過ごせるようにというお気持ちで活動されているというふうに理解しました。


そうしてその後、自分が培ったもので社会に貢献していこうという気持ちになるなどの影響を与えています。
スポーツ界から招待を受けるような若い人たちが、どんどん出てきてほしいと思います。

 山下氏は、園遊会で、昭和天皇にお会いし、昭和天皇や皇族方の表情やお声がけなどの雰囲気に

感動され、実際のご皇室のご活動を通して天皇陛下は世界の平和を祈り、日本国民が安らかな日々

を過ごせるようにという深い願いで、ご活動されていることを感じられたようです。

 そして、今までは、勝つことに目標があったが、園遊会昭和天皇の雰囲気に触れられ、これか

らは、自分が培ったもので社会に貢献していこうという強い決意をもたれたということです。


 そして、陛下の思いに感動し、「スポーツ界から招待を受けるような若い人たちが、どんどん

出てきてほしい」と思われたのでした。

「民安かれ、国安かれ」と歴代の天皇が願われており、その御徳に触れられた人は涙が出るほど

感動されるのでしょうね。